「失敗は成功のもと」
なんてことわざがありますが、わたくしDAさんはそのとおりだと思ってます。
ですが、世間に出ると、
失敗したら、間違ったら怒られる。
絶対失敗したらダメ。絶対間違ったらダメ。
そういう人が多くいるように思います。
また学校のテストでも間違ったら☓。
点数が高いとほめられるという事が当たり前になっています。
何度も何度も同じ失敗を繰り返すと良くないと思いますが、僕はそういう「間違ったらダメ」という風潮のせいでチャレンジすることが出来ずに成功も生まれにくくしているように思います。
そこで、間違いや失敗をいいものとして考える理由と、間違いや失敗をすることを許容しないとどうなるかと書いてみたいと思います。
テストのわからない問題どうするか
わかりやすいのは学校のテストです。
学校のテスト問題でどうしてもわからない問題がある時に、
Aさんは空欄に、Bさんは当てずっぽうで空欄を埋めました。
その場合に採点がされて返ってきた時の事を思い浮かべてみてください。
Aさんは空欄なので当然☓なので点数はもらえません。
ですがテストの解答を振り返る中で間違った箇所の正解を確認するでしょう。
そして正解の答えを見て理解するか、理解するまで考えるでしょう。
Bさんは当てずっぽうで書いたら○でした。点数ももらえています。
間違った☓場所を確認する方に意識が行くでしょうから当てずっぽうの○の振り返りをするでしょうか?
もちろん解答の段階で適当に書いたことを覚えていて調べる人もいるでしょうが、もし目的意識が点数だった場合は気にしない人もいると思います。
この考えは僕がテストを受けていた小さい頃から考えていたことで、僕はわからない問題はすぐに諦めて空欄で出していました。
それは問題を見てすぐに出てこないという事はわかってないという事なので、解答を聞くときに覚えるつもりでわかりやすくそうしていました。
ですが、一度先生に注意されたことがありました。
空欄で出すな。という指摘でした。
僕はもともと思っていたことをその当時の拙い語彙力で伝えました。
「点数取るために勉強教えてるのか。内容が大事だから覚えてもらうために教えてるのかどっちなんですか?」
まぁこんな感じの生意気な事を言った覚えがあります(^^;)
これを受けてあーだこーだ言われましたが、
先生としては受験向けた考えで、当てずっぽうでも書いて点数を取ることが大事。
そういった考えだったようです。
ここで点数を取らないといけない場面では、当てずっぽうでも埋めたほうがいいかもしれません。
自分の理解を確認するためには、空欄にして間違ったほうがネガティブな記憶として残りやすいので本番の受験のために覚えられるように思います。
社会に出てから間違った場合
社会に出るとこの間違いや失敗についてより厳しくなる風潮があるように思います。
そういうプレッシャーの中では、問題が起こった時になんとか取り繕おうとしたり、ごまかしたりして自分だけで事をおさめる方法を選んじゃいたくなる気持ちもわかります。でも間違いや失敗を取り繕ってごまかそうとすると、それが露見した時に大変なことになります。
最近ではネットでの炎上でよく見ますね。
なので間違いや失敗に厳しい環境というのは現場で働く人にとっては精神的に良くないように思います。
人間ですから間違いは誰にでもあります。
それを許容しあえる環境づくりが大事なように思います。
もし間違っても、間違った事っていうのはネガティブな記憶はずっと覚えているものです。
それにより学習するので長期的に見たら必要以上にプレッシャーを与えるよりはいいと思います。
間違いや、失敗を許せない人ってどんな人?
立ち歩きを覚えた小さい子供って、当たり前によく転ぶものです。
それを繰り返して、痛いのは嫌だから頑張ってバランスを取って無意識に歩けるようになるわけですけど、その事をすっかり忘れて転ぶことすらさせてくれない人っていますよね。
そういう考えを人に押し付ける人ってどういう人かなって考えた時に、
大人に言われたとおりに生きてきた素直な人なんじゃないかな?って思いました。
・・・しちゃダメだよ。
ちゃんと勉強していい大学行っていい会社に就職するんだよ。
子供の頃は何回聞いたかわからないですね。
そういう教育を受けてきて、怒られないようにそれに従って生きてきた人なんじゃないでしょうか。
そういう人は失敗したときにどうなるか、間違ったらどうなるか実体験として解らないから必要以上に怖いんだと思います。
人間は知らないものを怖がりますから、怖いからなおさら極端に避けようとするし、そうなりそうな人を見てられないんでしょう。
間違いや、失敗を当たり前と考える人はどういう人?
こちらは逆に大人の言うことを素直に聞いてこなかった人たちでしょう。
わたくしDAさんもこちらの人間です。
無茶なことをやって怒られたり、ダメということをやって怒られたり、
小さい頃はほんとうに怒られてばっかりだったと思います。
なんでそれをやったかというと興味があったからです。
「走ったら危ないよ。」と言われた場所で走って転ぶ。
「危ない」って言われてもなにがどう危ないのかわからないんです。
そしてどう危ないのか興味があるんです。
【これはとってもバカなエピソードなので絶対に真似しないように】
中学生の頃、使い捨てカメラの中身が気になり分解をはじめました。
紙のカバーを外して単3電池が入っているのは知っていましたが、単3電池1本でなんであんなに明るいフラッシュが出るのかが気になったんです。
「分解禁止」「高電圧注意」と書かれてましたが、そんなのお構い無しで、電池を外せば大丈夫だろうと開けると単3電池と同じくらいのコンデンサーが入っていましたが、当時の僕はそれがなにか知りません。
素手でペタペタ基盤を触っていると「バチーン」と眼の前に雷が落ちたような衝撃を受けて、痙攣しながら倒れ込みました。
今は知っていることですが、死ななくてよかったなと思ってます。
知っている人もいるかと思いますが、使い捨てカメラのフラッシュはコンセントの3倍の300V以上の電圧が流れます。
たまたま触ったところが抵抗などにより電圧が低かった場所だったから死ななくてすみました。
普通はこの経験から電気に対してトラウマになりそうなものですが、いまは電子工作がメインのお仕事になっているので、そこらへんの考え方がおかしいと自覚しています。
話をもどすと、人が知らないことに挑戦して、失敗して、じゃあどうすれば?と試行錯誤して成功をつかむ。
それを経験したことがある人は、失敗したときはどうしたらいいか、失敗しないためにはどうしたらいいかを実体験として学んでいます。
そのため新しいことにチャレンジするのを応援できます。
失敗する範囲が予測がつくし、リカバリー方法もわかっていて、あらかじめアドバイスが出来るからです。
どっちがいい人というわけではないです。
大人の言う通りに生きてきた人たちは、多くの人たちの経験をもって危険回避をして生きてきています。これは人間の経験の歴史の上で、先輩の言うことを聞いて、わざわざ自分で経験する必要はないので、その集合知による安定を得られているのだと思います。
だからわざわざ未知の危険に踏み込もうとしている人に注意したくなるんです。
「(何が起こるかわからないから)危ないよ。」って。
それに対して自分の身で体験し新しいことに挑戦したい人がいます。
これはどちらがいい人とかそういうのでなく、
人類として経験してきた事を自分のものにして危険を避けて生きていく人か、
自ら体験して失敗してでも新しいものを見たいか、
そういう人の違いだと思います。
こういう風に書くと、後者が輝いて見えますが、破天荒な人生を送ってきたわたくしDAさんとしては、前者の方がとてもうらやましく思えるので、そういった人生をおすすめしたいところです。
なにか挑戦する人がいるから新しいものが生まれ、新しく生まれたものを活用できるように挑戦する人がいるから安定して使えるようになり。安定を求めている方々がそれを求めるようになり、その評価によってまた新しいことに挑戦できるようになる。
どっちがいいというわけではないですが、間違いや失敗があるから覚えられる事もあるので、それを許容できる環境が大事だと思います。
なんだか、脱線気味の内容になったのでまとまっているか微妙ではありますが。
それではまた次の記事でお会いしましょう^^
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